2013年10月9日水曜日

29 終わりと本当の勝利

何もかも全てが終わったのは2012年の6月に入ってから。
弁護士:Sさんと相手方社長の間でようやく正式にこれで終わりです、という書面を交わし、私のところへ送られてきたのです。

何度お礼を言ったか、でも言い足りないくらいです。

システムさんと営業:Hさんにも報告しました。
営業:Hさんは新しい会社で忙しくしているそうです。頑張って!

システムさんとは3月の始めに関東へ帰られる前に飲みに行きました。
事の顛末をお互いに報告し合い、これからのことなど色々話をしました。
家が近かったら一緒に仕事できるのにね、とも。
でも何かあったらお手伝いしますよ、と笑顔でお別れしました。

余談ですが実際に労働審判で和解していた場合、相手方から『この件についての口外はしないという約束で』とか何とかいう一文を盛り込まれることが多いんですが、今回は差し押さえ免除を条件に、こちらの一方的な要望を盛り込んだ(退職日の指定、源泉徴収票出せ、と名目は慰謝料くらいのもんですが。)ものになっているので、この制約はまったくありません。
労働審判も内容は公表されないだけで、こういうことがあったと話をすることには制約が無いのです。
まぁ、あまりのおおっぴらなやり方はモラルに反するかなぁと思いますけど。

まぁ、実名伏せている時点で読んだ当事者しか自分たちのことだとは分かりませんから制約があったとしても公開に関して支障ないと思うんですけどね。

なので本当はこの記録をすぐに公開しようかと思ったんですが、先にやることがあるでしょう、と。

28 勝利の実感

2月25日、相手方から弁護士:Sさんに電話があり、今回の解決案をぜひ受け入れたいが支払いの目処が立たない、返事を3月1日まで待って欲しい、と連絡がありました。

まだ時間稼ぎかい!
この話を聞いてめっちゃ怒ったんですが、弁護士:Sさんは冷静に3月1日に返事がない場合は何があろうとも差し押さえを再開しますよ、と伝え待つことになったんです。
大人だ。

そして3月1日、相手方から弁護士:Sさんに、今回の解決案を全面的に受け入れますと電話がありました。
ここでも弁護士:Sさんは冷静に「ではそのことを正式な書面にしてお送りください。そして3月5日と3月15日に全額が振り込まれた後、正式にこの件を終了させる手続きをしましょう。」と伝えました。

そうなんです。
もう口約束は一切ないのです。

2013年10月8日火曜日

27 解決案~ほんの少しの譲歩

先週相手方のセコい悪あがきが失敗し、こちらとしても差し押さえ第2弾を実現させるべく割り振りなんぞを考えていたのですが、弁護士:Sさんは相手方にとある解決案を提示することを私に勧めました。

理由として差し押さえる前に会社を潰してしまったり逃げられてしまったら現回収分で終わってしまう。
会社を潰すことが目的ではないので現実的な方法をとりませんか、と。

26 セコい悪あがきをしてきた

さて、これで相手方が素直に残りの金額を払ってくれば終わりだったんですが、ものすごくセコい悪あがきをしたんですよ。

ここからは1日毎に動きがありました。


2月14日:
相手方から弁護士:SさんへFAXが送られてきました。
要約すると、2月7日の話などをまとめて『A弁護士事務所』を代理人とし、話し合いの場を設けてもらえるよう提出したとのこと。よってしばらく待って欲しいと。

2013年10月6日日曜日

25 弁護士の威力

相手方もやっとコトの重大さに気づいたのでしょう。
弁護士:Sさんの話によると相手方の社長は電話口で「とにかく話をしたい」の一点張りで何の話をしたいのかは言わなかったそうです。
下手なことを電話口で言ってコレ以上状況を悪くしたくないと思ったんでしょうね。

次の差し押さえのために予定していた打ち合わせの日に弁護士事務所に来てもらうことにしました。

もちろん私は同席しません。
弁護士さんは債権差押代理人として私を守ってくれているのです。

相手方の出方によって今後の方針を決めることになりました。

そしてこの頃相手方社内でも動きがありました。
とうとうシステムさんと社長が激突したらしいのです。
システムさんはもうコレ以上ここにいても何の進展救いも無い。
なので今月いっぱいを目処に東京に帰る、とのことでした。

ホントお疲れ様でした。
よく今まで社長と経理:Yのお守りをしてたよね、と同情したくらいですもん。
システムさんが帰る前に飲みに行きましょうね、ということになりました。

2月7日に相手方社長が弁護士:Sさんの事務所に来ました。
この時の報告は数日後の打ち合わせ時に受けました。

とても穏やかな弁護士:Sさんが開口一番「嫌な奴らでしたね。」と顔をしかめながらおっしゃいました。

24 差し押さえ始まる

さて、差し押さえが始まりました。
請求合計金額は200万円ちょっと。
これを4社に分けて回収しようとしてました。

しかし12月分の売上が少なかったところと、偶然にも仕入れとの相殺でマイナスになっていたところがあり、実際に回収できたのは80数万円でした。
計算違いかー。

でもセンター:Yさんと、弁護士:Sさんの話によると1円も回収できない事例も少なくない。
KiKiさんの場合はこの差し押さえで未払い給料分と解雇予告手当分はクリアしているのだからまずは良しとしましょうよ、と。
それよりも取引先情報の正確さを褒められました。

そうですよね、労働審判で勝たなければ1円も回収できなかったかもしれないんですもん。
まずは良しと思います。

未回収分は第二弾で取り返しましょう、ということになりました。

23 弁護士さんにお願いする

審判が降りて、反訴するには2週間位内に相手方が異議申立ての手続きをしなければなりません。
逆に2週間経つと審判が法的効力を持ち、相手方に支払い命令として効力を発するのです。

そして案の定相手方は2週間経っても手続きしませんでした。

システムさんにも連絡しました。
「まぁ、こちらが負けるのは当たり前だろうね」と。 何でこの人に相談しないんだろう。

そう、労働審判って最初から出席して色々交渉すれば支払金額が下がる可能性が高かったはずなんです。
ちょっと調べればネットにいくらでも情報はあったのに。

と、相手方に同情しているヒマはありません。
多分労働審判自体をナメきっている様子でしたので、ほおっておいて大丈夫とでも思っていたかもしれません。
支払うという行為はしないはずですから、差し押さえの方法を考えることになったんです。

22 労働審判第三回目 終わりの始まり?

11月22日、労働審判第三回目。
これで最後(のはず)です。

今回は提出書類なし、でもセンター:Yさんとは色々打ち合わせをして第三回に臨みました。
午前中だったので午後から学校に行く用意もしていざ出陣。
センター:Yさんがどうしても事務所にいなくてはいけないので1人で行くことになったのは不安でしたけど。

そして今回も時間になっても相手方が来ません。
3回とも欠席するのか?と思った時事務官さんが待合ソファーに来られて「先ほど相手方から連絡があり10分ほど遅れるとのことです。もうしばらくここでお待ちください」と言いました。

ここまで来て遅刻------wwwww
もうホント驚いて声も出ませんでしたよ。
でもしばらくして「うわ、久しぶりに会うんだ、ヤだなぁ…」て思いましたけど。

そして相手方到着。

21 会社の状態など

労働審判を2回も欠席するという常識をまったく持ち合わせていない相手方の会社。
中の状況は時折システムさんから教えてもらってました。

なんだかんだと言ってヤバいことには変わらないが年は越せそうであるということ。
取引先もちょくちょく探りを入れてきているらしいこと。

営業:Hさんは7月初めまでで辞めてすぐ新しい会社で頑張っているということ。
これはすぐに直接電話しておめでとうを言いました。
ホント嬉しかったんですよ。

新しくバイトで入った女の子はデザイン系の仕事に弱いので、それらの仕事を断りつつも、残った仕事は頑張ってやっているとのこと。
会ったことないんだけど何故か頑張ってと思ったわ。

20 労働審判第二回目

楽しい学校生活の傍ら、労働審判第二回目への準備をしなければなりません。

あの相手方から提出された答弁書への反論書の作成です。 もう、嘘ばっかり書いてましたからひとつひとつ事実ではないことをきっちり書いていく作業だったんです。

もちろん相手方が離職者への各種手続きを怠ったことも全部記載。
日付が分かるよう離職票(提出日が離職日からかなり経過している)も証拠書類として添付。
こういうのも全部証拠になるからすごいねー。

センター:Yさんのご協力のお陰でしっかりとした物が出来上がったと思います。 裁判所には少し遅目、5日前に送付しておきました。 相手方になるべく準備させないためです。

そして第二回期日、10月20日です。
学校休みたくないんだけどなと思いつつ午前中開始だったので終わったら行く用意して臨みました。
今回はスケジュールの都合がついてセンター:Yさんが着いてきてくれました。
「こんな悪いことする相手方の顔見ときたいしなー」とすごく頼もしく思いました。

19 学校生活始まる

さて2011年10月から職業訓練校での学校生活が始まりました。
予定の22名より3名少なく、またその中で女子は5人でした。
プログラミングコースだから仕方ないか。

職業訓練校なのですべてがプログラムの授業ではなく、月に1、2日は就職支援のセミナーなどの授業になります。
ぶっちゃけ転職回数の多い私にとってすべて分かっている内容で退屈だったんですけど、これを受けないと講座自体を受けられないのでがまんがまん。
求人票の見方、求人の捜し方、履歴書の書き方、職務経歴書の書き方、面接での受け答え、印象の良い面接態度などなどみっちりやっていただきました。

そしてこの職業訓練校、受講にあたって補助として条件が合えば月に10万円ほど支給されるんです。
これを狙って受講するという輩も多く、その後も続けて色んな講座の受講を繰り返す方が多いので連続して受講できないというルールができてました。
そして受講自体は出席日数8割以上ですが、補助を受けるためには皆勤(面接などの求職活動は免除)であることが必須になってました。
さすがに厳しくなってるよね。

私はこの条件に合わなかったので補助を受けられませんでした。

18 労働審判第一回目

労働審判は裁判官1名と労働審判委員2名で構成される労働審判委員会が、 原則として3回以内の期日で事件を審理する手続です。
通常で考えられている裁判とは趣は異なりますが、裁判所でとり行われる正式な労働問題専門の裁判です。

さすがに裁判所から正式な出頭命令が来たら相手方の会社も無視するわけにはいかないでしょう。

密かに連絡をとったシステムさんの話によると社長は何やら大慌てでどこかに相談しにいったとか。
会社お抱えの社労士もいないし、弁護士にでも相談にいったのかしら?
まぁ、会社側が弁護士つけないのはあり得ないらしいですから。
うーん、そうなると労働審判の席では相手方と弁護士を相手に1人で戦うことになるのかー。
弁護士以外の代理人が認められていないので、センター:Yさんは中に入れないんですよ。

8月17日に正式に受理された申立書とともに相手方に裁判日が通知されています。
9月28日の第一回期日の10日前までに相手方は答弁書(反論)を提出しなければなりません。
これは法律で決まってるそうです。

私の方はこの答弁書との戦いになるのです。

17 労働審判の申し立て

ハローワークの職業訓練校に行くことを決めたり、見学に行ったり、試験を受けたりしている間に労働審判申し立ての準備はどんどん進んでいきました。

申立書の作成です。
センター:Yさんの話によるとこの申立書の内容と添付証拠が一番重要ということなのです。
なので全国の案件に対応している忙しいセンター:Yさんに書いては添削→修正の繰り返しを行い、間に3回会って打ち合わせもし、証拠になるものをどんどん入れていきました。

そして申立書を作成し始めて約1ヶ月半、8月10日に裁判所へ行き、申し立てを行いました。
生まれて初めての裁判、弁護士つけずにやることになるとは夢にも思いませんでしたよ。

16 準備しつつこれからのことを考える

待機期間なしで失業保険がもらえるとはいえ、1年8ヶ月しか勤めていませんから支給日は90日分しかないんですよね。
すぐに仕事見つかればそれに越したことは無いんですけど、さすがに年齢が42歳なのでそうそう決まるもんではありません。

転職情報サイトやハローワークで探すも応募できそうなところはわずか。
それでも数件は応募してみました。

でもこれから労働審判しようって中途半端な気持では受け入れてもらえないんですね。
ことごとく落とされました…。

それで前から勉強したかったプログラムの学校に行けないか探してみました。
そう、失業者の強い味方、職業訓練生度です。

15 労働審判相談センター

労働組合の方に教えてもらった電話番号に電話しようと思ったんですがどう説明していいか分からず、数日考えて経緯をまとめました。

検索してみるとホームページがあり、そこから相談申込のフォームがあったので6月7日の夜、そこへ記述して送りました。

すると即日返事が。
内容の確認などのやりとりをしました。

14 労働審判を勧められた

解雇が決定したので色々手続きにも行かなくてななりません。

まずは健康保険。
歯医者に通ってる途中だったんですよね。
歯医者さんには事情を説明して治療途中で次の健康保険証ができるまで待ってもらうことにしました。
国民健康保険を発行してもらおうと市役所に行くと「前の保険から脱退した証明が無いと手続きできないんですよ。」とものすごい同情されました。
え?じゃぁ健康保険証できないの?
「でも本日相談に来られたので受付日を控えていますから、記録を残しておきますからね。」と。
もしかしてこういう案件って多いの?

というわけで管轄の社会保険事務所へ。
「調べてみるとまだ手続きされていないみたいなので証明が出せないです」
なんだとー!

13 役所は動く

システムさんと営業:Hさんはかなり心配してくれました。
まぁ、普通の感覚を持ったやさしい方たちなので、心配かけて申し訳ないとも思いましたね。

営業:Hさんは今回のことで見切りをつけたらしく、本格的に転職活動を始めると言いました。
システムさんは私がやっていた仕事を押し付けられたらしくやり方などをこっそり聞いてきました。
今まで良くしてくれたクライアントさんのためだし、システムさんには苦労かけたくないので少し協力しました。
会社に電話しても私が出ないので不審に思ったクライアントさんが私の携帯に電話してきてくれました。
そりゃそうだ、突然だもんね。

しかし、1週間待っても内容証明は来なかったんです。

12 会社を追い出されたぜ

2011年5月19日、システムさんに言われていつもより30分ほど早く出社しました。
するともう社長と経理:Yが来ています。こんな早く来てるの初めて見たよ。

そしてですな、私の机からPCが撤去されていました!
「これはどういうことですか?仕事ができないじゃないですか!」と当然抗議。
「君にはもう仕事をしてもらう必要はない。事務所の鍵を置いて私物をまとめて出て行け!」と叫びましたね。

はぁ?

予想通り!私は用意してきたボイスレコーダーを取り出し「では後々私が勝手に出て行ったということにされないように、こちらに録音させていただきます。さあ!これに向かってもう一度言ってください。そうしたら荷物をまとめますよ。」
ふん、お前たちのやりそうなことはお見通しなんだよ。
録音ボタンON!

2013年10月5日土曜日

11 労働基準監督署で色々教えてもらった

私は既婚者で当然旦那さんがいる身です。
旦那さんはちょっと病気で2年ほど休職してて、ついこの3月から復職したばかり。
なのでホントは心配かけたくなかったんですね。

しかし給料遅配が酷くなった2011年の年末に会社の状況などを正直に伝えました。
「なるようにしかならないだろうね。しばらく様子をみるべきだよ」と言ってくれました。

そして2011年5月16日に渡された『雇用契約変更願い』を見せながら「もうダメだわ」と伝えると「これからは僕が頑張っていくから大丈夫」と言ってくれました。
えぇ旦那さんやー、と嬉しくて泣きそうでしたね。

そんな背景もあり5月18日に会社を休んで、地元の労働基準監督署へ状況を説明しに行きました。
実は労働基準監督署って、勤めてる地域の管轄に行かないといけなかったんですね。ここで初めて知りました。無知だなぁ。

10 戦いの火蓋は切って落とされた

3月中旬からショッピングサイトの制作を始め、後は決済方法の確定と最終的な商品販売価格の決定でほぼ開店することが可能なところまでこぎつけたのが5月ゴールデンウィーク明けです。

5月ってゴールデンウィーク分営業日数が少なくなるので、対会社相手の商売をしている相手方の会社にとっては売上がちょっと落ちるのです。
その上2011年3月11日の東日本大震災の影響で3月から仕入れが不安定になった商品もあり、3・4月の売上もかなり減っていたんですね。
大阪にいても影響は出る訳です。

そういう状況下ゴールデンウィーク明けに社長が打ち合わせと称して全員を集めました。
「震災の影響で売上が激減している。もう次の給料をいつ払えるかは分からない。それよりも来月あたりがXデーになるかもしれない。そのつもりで。」と言ってすぐ立ち去りそのまま事務所から出て行きました。
こちらの話を一切受け付けない意思表示のため逃げたらしいです。

09 つかの間の平和?

会社の経営と雰囲気がどんどん悪くなるとはいっても何とかしたいと思うのは社員として当然で、新規開拓案、事業展開など色々意見を出し合って1つ1つ地道にやっていこうということになりました。

そして、入社の時に言っていたショッピングサイトの制作をやっとすることに。
しかし予算が1円もありません。
そこで大規模なプロモーションをするわけではなく、取扱商品をネット上で注文してもらうだけなら、レンタルカートシステムを利用して始めるのが良いのではないかという提案をしました。
というよりそれ以外でどうやってやれというんだ。

2013年10月4日金曜日

08 攻撃メール発信!

2011年を迎えました。
そしてシステムさんが来られました。 この方は昔誰もが知っている大企業に務めていたんですが、その会社の中で妙なトラブルに見舞われ、大企業なのに仕事の進め方がなってない!小さいところで全部を見渡せながら仕事したい!ということで、社長たちがもといた会社(それでも中小企業の中くらいの規模)に転職した変わった方です。
それでも一般常識に対してはまともな考えで仕事をすすめる際にも楽に話し合いができる人でした。

システムさんが来られてしばらくは社内の雰囲気も和みましたが、給料の遅配はどんどん深刻になっていきました。
2011年1月分の給料は3月になっても支払われなかったんです。

07 どんどひどくなる

社長も色々策を練り売上を上げるべく色々思案していたようですが、ついに関東在住のシステムさんをこちらに呼び寄せ、仕事を蜜に手伝ってもらう話をこぎつけたのです。

入社して1年ちょっと、電話でのやりとりはずっとしてましたが、このシステムさんにお会いするのは初めてです。
歳も近いらしく電話では結構話ししてて面白い人だなと思っていたので嬉しかったですね。

12月の途中に1度来られて、正式には翌年1月から出社ということになりました。
会社のすぐ近所に部屋を借りての大阪出向です。

まぁこの方が大阪に来れるようになったのは色々あって仕事的に身軽になったからで、1年ほどなら大阪に来ても良いなぁと来てくださったようです。
でも社員としてではないんですよ。
実はこの方相手方会社の出資者なんです。
後にこの方が言った言葉を使うと「騙された」ことになります。
出資の時に聞いていた経営計画は半分以上嘘だったようで、結局会社は自転車操業&赤字の日々。
あまりに話が違うので様子を見に来たというところなんです。

そして、2010年8月の給料ダダ遅れの遅配を皮切りに、その後どんどんひどくなっていきました。

2013年10月3日木曜日

06 給料遅配がよりひどくなっていった

2010年、この年の夏は本当に暑かった。
熱中症という言葉が毎日のように聞かれる日々でした。
そして8月半ば社長が熱中症で倒れました。

社長は1人暮らし。
奥さんとは多分離婚して、話によると息子さんは1人独立してもうすぐ結婚されるとか。
結構良いホテルで働いていて自慢の息子らしい。

そういう社長が1人で家で倒れたから皆で心配した。

05 そしてまたもや波乱

営業:Tさんはいなくなってしまったものの、営業:Kさんを迎え何とか年を越しました。 しかし、2010年1月から給料の遅配は始まったのです。

通りすがりに悪びれもせず「今月の給料は月末に振り込むから」ということで重要なことを済ませた社長。
それでも月末には振り込まれたので、特に文句も言わずにいると2月も本来の給料日である25日に振り込まれていない…。
この時は先に営業Hさんが「入っていないんですけど…、困るんですけど…」と言ってくれたので私は行動を起こしませんでしたけど、その時の社長の言い訳が「振り込むの忘れてた」(!?)と軽いノリ。
はぁ?!!!って感じでしたよ。

それでも営業:Kさんは雇ってもらっただけで良しとし満足気。

こんなの常習化すると困るんだけどなぁ、と思っていたんですがその次の月からも給料が月末に振り込まれるようになってしまったんです。

2013年10月2日水曜日

04 仕事が行き当たりばったりでコワイ

営業:Tさんがやらかしてくれて一時期社長と経理:Yさんが機嫌が悪く(当然ですがね)社内の雰囲気も微妙になっていた頃、営業:Kさんはムードメーカーとして頑張ってました。
もともと大阪で営業をしていたので、その頃担当していたクライアントに挨拶回りも始めて覚えてくれていた先から仕事をいただいてました。

そんな時、事務所内に新しいPCを2台とカラー複合機・モノクロ複合機を入れたいので設置までお願いしたいという内容の仕事をもらってきたんです。

複合機の設置はメーカーの人に搬入をお願いすれば良いとして、PCの設置(セットアップとか色々)は誰がするねん?と思ってたら私にお鉢が回ってきました。

03 またもやモト社員が…

さて話は2009年11月まで遡りますが、営業:Tさんと連絡がつかなくなる前に以前社長たちと一緒に仕事をしていたというKさんが会社に訪ねてきました。

Kさんはその時25歳、社長たちと仕事をして辞めた後、パソコンスクールの講師として仕事をしていたのだそうです。
しかしもともとは営業をやっていたので教えるということにストレスを感じるようになってきており、相手方の会社が安定してきたのならここで雇ってもらえないかと頼みに来たのでした。

社長は自分を頼ってきた元部下がよほど可愛かったのでしょう、すぐに雇い入れる準備をしたのです。
しかしそのやり方がセコかった。

2013年10月1日火曜日

02 最初の兆候

さて、会社に不穏な空気が流れ始めたのは2009年12月初旬。

営業:Tさんは普段東京で営業されています。
この営業:Tさん結構アバウトな性格で書類作成丸投げとか、2日くらい連絡取れないとかザラにあったんですよ。
この時までは社長は前の会社から着いてきてくれた可愛い社員として多目に見ていたと思うんです。
しかし営業報告と経費や交通費の計算書と取引先との電話で、取引先に行っていない日が多々あることが発覚しました。

そんな折、営業:Tさんと連絡がつかなくなりました。

01 入社してからしばらくは平和でした

どこから遡って書けば分かりやすいか悩んだんですが、やはり入社当時から書き始めるのが一番かと。

このお話のはじまりは、2009年9月1日です。

このブログの中では問題の会社のことを『相手方』と呼びます。
労働審判時にはこの呼び方になったんで最初からこれでいきますね。

大阪市で事務機器や事務用品その他などを取り扱っていた会社です。
大きなものは複合機(いわゆるコピー機)、から小さいものは文房具などなど。
他にも名刺や封筒の印刷を請け負ったり、私が入ってからはデザインもやりましたね。
ま、何でも取り扱ってたという小さな会社です。

私KiKiは、2009年9月1日 入社
職種:Webデザイナー
会社のホームページの充実と将来的にはネットショップを展開したいとのことで募集されたとのことです。
社員は5人。ちっちゃい会社です。
社長、経理(件取締役件営業)の女:Y、営業の男性:TとHの2人と私:KiKiです。
あ、他に外部スタッフとして関東にシステムさんという方もいらっしゃいます。

何とこの会社の社員は全員、とある会社の社員で大阪営業所が閉鎖の際辞めて、社長を中心に自分たちの会社を立ちあげたといういわく付きだったんです。
なので部外者(?)は私だけ。これも後になって色々あるんですよ。
この時すでに41歳ですから、もともとWebデザイン・制作をやっていたとはいえ就職できたのは奇跡と思ってたんですよ。

入社して困ったのは仕事が無いんですねー。
どうも「将来的にこうしたい」という漠然とした希望しか無かったんですね。
もちろん現在のサイトの充実を図るというのはあったんですけど、明確な方向性を会社が示してくれる訳ではないので企画立てることとソースコードの整理くらいしかありませんでした。

あまりに暇なので営業さんの持っている資料とか色々見せてもらっているうちに、先にこちらを見なおす方が会社のためになると思い、数点見本を作成して社長へ提案。
やっと仕事が増えました。
会社で取り扱っている商品の資料・チラシ的なものを含め、見やすいものに作り変えてPDF化、さらにホームページにも掲載していくというのがメインの仕事になりました。

それでも時間がありましたから、事務の仕事(受注・発注・手配・納品書作成・請求書作成などなど)もやりましたねー。
今思えばこれをやっていたからほとんどの取引先のことが分かっていて、最終的にお金が戻ってくることになったんです。
それはもっと先のお話で。
デザイナーですが、ちっちゃい会社で変なプライド持っても意味ないんですよ。
会社が利益を得るために手伝うのは当たり前、と。

そのうちクライアントさんの要望で、定期的に写真撮影から資料や看板・チラシなどの作成を依頼されたり、知り合いが事務所を新設するのでキャラクラーを作って欲しいとか、思ってもみないちょっと面白い仕事も増えたりしてこの年の年末までは結構楽しくやってました。

そしてこの会社、学校法人さんなどのクライントも数件ありノベルティの企画・提案などもあったんですね。
ここで以前ノベルティのサイトを制作・運営してた経験が活かされ、新規仕入先の開拓も行い色々提案しました。
資料もオリジナルで作りなおして企画書に添付しやすくしたり。
暇な時期にギフトショーに行って色々見てたのが良かったんですね。
何でもやっとくべきです。

少数のノベルティへの名入れ方法なども提案、このノベルティ関係の受注が結構増えたんですね。
最近では高校の学校法人さんの例でいくと、地域の中学校への学校説明会やオープンキャンパスなどでもノベルティを配布することが多いので需要があったんですよ。
この仕事は楽しかった。

こういう実績とホームページへの取扱い商品ページの増加で、アクセス数も伸びホームページでのお問い合わせも増えていきました。

なので、社長や営業さんから結構頼りにされてたんですよね。
その上社内のPCやネットワーク環境なども都度整備したりとかしましたし、「PC固まったー」とか「このソフトの使い方分からないんだけど」等の対応もしましたよ。
今までどうやって仕事してたんだ、この人達…と思いつつ、営業管理ソフトの帳票類のレイアウト修正もやったなぁ。
ホームページの管理者としてレンタルサーバーの管理とかメールの管理までやってましたから、結構重要な事を入社すぐからやってたよなー。

入社してほんの3ヶ月ほどは楽しく過ごせたんですが、ここから不穏な方向へ行きます。